あのオレンジの光の先へ

何気ない毎日を君色に

世界で1番好きなひと

 

ある街の診療所に生まれ

そこで暮らした23年間の昔話_____。

 

「京都へ紅葉を見に行こう」

母の使っていた携帯電話のメールには心から慕っていた数少ない友人との会話が残っていた

ある穏やかな秋の日

母は突然人生の幕を自分で降ろした

結婚して2人目の子が1歳半の時

「もうすぐ1歳半検診やね」

そう母からメールがきた記憶は未だ消えない

亡くなる2日前の午後

母は私のマンションにきてくれたのだ

たくさんの品物をスーパーの袋に詰め込み両手いっぱいに持ちながらいつもと変わらない笑顔で。

 

その中には私が母と一緒にお買い物をした時によくカゴに入れた品物達。孫が大好きなお菓子。

腕の色が変わるくらい重い袋は今にもちぎれそうに

細くて弱々しい皮膚に食い込んでいた_____。

 

数時間、母と他愛もない話をしながらたくさん話した。本当に幸せだった。

帰って欲しくないと心から思っていた

 

『何か悩んでるの?』

 

母は帰る時になって

エレベーターまでの廊下でふと私に聞いてきた

 

肌寒い夕方。黄色いカーディガンを羽織る母の

うなじが忘れられない

 

「うーん。別に…」

大丈夫じゃない信号を送り

母を心配させる様な返事をした私は未熟すぎた

 

エレベーターが閉まる瞬間

『メールするね!』と母は私に告げてくれたのに

私は【開ける】ボタンも押さなかった

 

そうだ 

私は孤独な愛想のない娘だったかも。

寂しくて寂しくて

1人で我慢をする事にも飽きていた

そんな意固地な末っ子の私を

お母さんはわかっていたのだろうかー。

 

その頃、2つ上の姉にも生後4か月の双子の赤ちゃんがいた。母は毎日の様に赤ちゃんのお世話へ姉のマンションへ足繁く通い幸せそうにしていた

 

今思えばそんな母と姉を見て私は

年甲斐も無く激しく嫉妬をしていたのだろう

 

1歳半の息子を抱えていた私だってまだまだ母親に甘えたい。相談もしたいのに甘えてはいけない…。

嫉妬を聞こえのいい我慢に変換して私は心がどんどん歪んでいたのかも。大好きだった姉にも母にも

笑顔で話せなくなっていたかもしれない

 

母がマンションから帰った日

「帰ったよ」のメールがなかなか来なかった

 

いつもの帰ったよのメールの倍の時間が経った頃

帰宅のメールがきた

「なかなか バスが来なかった」

そう母は言ってたけれど、とても不思議だった

なぜかソコの部分が恐ろしく思えた

 

どうして母はあの日あんなにも

時間が掛かったのだろう

何があったのだろう

今はあの時本当にバスが来なかったのかは

母以外に誰も知ることがない

 

その日の夜

約束通り母から1通のメールが入る

 

『まだまだ若いからこれから

いろんな事にチャレンジしてね

何かあったら1人で悩まないで相談して。』

 

嬉しかった…でも 

今更なんだろう…なんて。

「素直」になる事も「ありがとう」も忘れる位

私はだいぶ生きる事に疲れていた

 

精神的な薬も飲んでないと支える事が

できない日もあったか無かったかー。

 

自分と違うタイプのマイペースでみんなに

愛されて育った姉がとても羨ましくおもえた

 

母の温かいメッセージに

「おやすみ」のメールも返信もせずに

眠ったあの夜にもう一度戻りたい。

二日後に母が居なくなるなんて……

1ミリも想像もしていなかった

 

死ぬ前の日には(私に会った次の日)

母は先祖のお墓参りに行き、

その夜にはお墓参りの帰りに購入した立派な柿を

ご近所に配り歩いた

「次の朝で良いのでは?」という父の忠告も

聞かず近所の方々のインターホンを鳴らし歩いた

 

きっと…その夜はなんでもない夜

母だって普通に眠り

普通に朝が来たはずなのに。

 

その地獄の始まりの日。

父親から正午過ぎに電話があった

「ママが倒れて寝てる

予定変更して今からワシ1人で柿をお前と

姉ちゃんところへ届けるから」

 

正直 手が震えた…。

ちょっと待って、倒れているとは何だ?と。

そしてそんな母を置いて出てくる父への不信感がこみ上げる。

 

父ははっきり言ってワンマンな人

よくわからない人として

私とも見えない距離が幼い頃からあったのだ

 

キレたら「お前とは合わない!」と

平気で私が苦手であると周りにも公言していた

 

だから「この家には要らない子」だと思いながらずっと生きて来たかもしれない

自分が傷ついてる事さえわかってなかったと思う

 

そんな人だからこんな日も倒れた母を置いて柿を配る事など平気である。父のワンマンショーに幼少期から慣れていた私は無視してすぐに母に電話をした

 

「もし…もし」

完全に喋り方が異常な母の声に私は大声で

叫び続けたのです

「何?その声?!!」

ろれつが廻らない声が受話器から聞こえる

素人判断ではあったが

脳の病気だと即勘が働いたのに

何もできなかった

 

父はなぜ救急車に乗せなかったのだろう

 

パニックになりながらその声に

私はただ苦しくなって泣き叫んでいた

心のどこかで「最後」を感じたかの様に

「嫌だ」と何度も言ってた

 

「私が心配させたから…」

完全自分のせいで母が倒れたと思い込む

 

でも泣く私に母は優しく

最後に言ってくれた

「違う 違う」と_____。

 

それが最後に母とした会話

 

その後聞いた話では

「自分のせいだ」と私が泣いていた事に対して

「何言ってるの。…親が子供心配するのは当たり前」って 少し話せるまで回復した母が言ってた様だ。… そんな母の大きな愛にも気がつかなかった

自分が今でも許せないまま生きている

 

夕方「一旦帰る」と自分で言えるくらいに回復したはずの母の心臓が点滴中に止まった……

地獄の電話は夜の6:27分頃だった

 

「ごめんね」じゃなく

「ありがとう」が言いたかった

 

病院までの車では何かに取り憑かれたかの様に

祈っていた。連れて行かないでほしい!と。

世界で1番好きな人を奪われる瞬間

世界が真っ暗になって何もかも終わると思った

 

それはドラマでよく見る光景だった

ストレッチャーに寝かされた亡骸に抱きついて

何度も何度も名前を呼び、泣き狂った末に

家族や看護師さんに押さえられて引きさかれる

 

「なんでですか?」と怖い顔でミスがあったのでは?と姉がつめ寄っていた事もぼんやり覚えてる

 

解剖をしてくれ、と言ったが親戚に反対された

「何があったらどうするの?」と_____。


いわゆるそういう事。

泥々した夫婦の関係に入るべからず。

 

私たちは

知って苦悩するより

知らずに生きる事を選んだ

 

深く考えると恐ろしい話だが

動かないまだ温かい母の顔が

「知らずに生きてほしい」と言ってる気がして

 

母の苦労を知るとこのまま生きる事の方が

難しかったのかもしれない

 

結局 死因は「脳梗塞」か「心筋梗塞」かの

詳しい原因を調べることもなく

母は当直医の判断で「不整脈」による心停止として届けられた。

その日 内科医はおらず

母を診てくれたのは耳鼻咽頭科のDr.だった

 

誰もいない病室で急に心臓が止まった場合は警察が他殺かどうか調べる事もある事も初めてだった。「ごめんね」と警察署の方は申し訳なさそうに謝っていた。他人の方が人間らしい場合もある事も

母と別れたことでたくさん知ったかもしれない

 

母が死んでも父はそんなに悲しそうに見えなかった

のは間違いだったのだろうか_____。
不思議と許せないとかそういう感情も無い程に

激しい恐ろしさがあった

 

母が亡くなった時に1歳半だった息子が

5月7日で13歳…

そう考えるともうかれこれ

10年以上も父親に会っていない

 

23年間育った家にももう帰ることは無い

母ではない違う女の人と新しく生きている

父の人生を邪魔するつもりはない

 

そんな父に会いたくなった訳じゃ無いけど

数年前1度だけ人間として会いに行こうと

決めた日があった

 

でも 「誰や」と言って名乗っても

父は出てこなかったー。

 

それが答えだと思う

 

私も結構クズだけど(笑)

人間の愛だけは捨てたくなかったので

それを確かめに行きたかったのかもしれない

 

血が通ってない心とは

一緒にされたくはなかった

 

もう2度と会うことは無い

きっと次に顔を見るのは棺桶の中か

はたまた、連絡がなければ遺影も見ないかも。

 

私は人として生きてきた

だから同じではない

 

でも父の血は

確実に自分の中に流れているのです

 

ママに優しいお迎えがきた事は

今は感謝しています

こんな世の中を知らないで良かったと…。

 

限界になったら

いつか絶対ちゃんと迎えに来てもらえる様に

もう少しこの世で生きるとしよう

 

じゃぁ …

その日までお元気で。